週刊柏﨑 第572回_私の証券会社時代
寒くなりました。今週、京都では木枯らしが吹きまして、一気に冬が来たような感じです。朝、犬の散歩で外に出ると本当に季節の変わり目が分かります。最近は息が白くなるのが普通になってきました。北の方では雪がかなり積もっているようでありまして、雨同様この冬は雪対策忘れずにしてくださいね。引っ張りだしてきたサンルミエ(電気ストーブです)の前では我が家のダメ犬が、猫のように横たわっています。あと二ヶ月程で今年も終わる訳でありますが、来年は私はとし男であり、ご存知の通り還暦になります。人生の折り返し地点は、とうの昔に過ぎていますが、この残り少ない人生を有意義に送らなければなりませんな。
皆さん、お変わりなくお過ごしでしょうか。
今、世界中を騒がせています「エボラ出血熱」でありますが、やはり西アフリカだけではなく、世界各地へ広がっているようであります。日本には、まだ発症者が出ていないようでありますが(感染が疑われた西アフリカからの帰国者は幸い陰性でした)もし世界的にエボラウイルスが蔓延したら、日本上陸を食い止めるのは困難であると思います。こういう危機的状況に直面した時にいつも思うのが日本という国家の危機管理の弱さです。まず全く現状に対する情報がありません。そして我々国民がもしエボラに感染した時の正しい対応の仕方が分かりません。テレビの情報番組では、もし症状が出たら、病院に行かずに保健所に行けと言っていますが、まず保健所の場所を知りませんし、どのようなセクションに行ったらいいのか分かりません。厚生労働省のホームページに出ているということですが、インターネットを観れない人はどうすればいいのでしょうか。このエボラ出血熱が日本に入ってくれば、それはもうパンデミック間違いないことで、日本中がパニックになる位恐ろしいことです。それにしては国の対応は考えられない位お粗末なものです。
空港など水際でしか日本上陸を防げないなら、国としてもっと厳格な対応マニュアルを作るべきでありますし、国民に対しもっと能動的に情報を発信しなければなりません。デング熱に感染するのとは全然違うのですよ。今現在、エボラウィルスに対し我々は無力でありますが、出来ることは体の抵抗力や免疫力を高めるしかないと思っています。私は、クロワール茶をしっかり摂ります。テレビで言っていましたが、リベリアではエボラに感染しても発症しない人もいるらしいですよ。それは免疫力や抵抗力の差だと解説の人が言っていました。
さて、私は以前、証券会社に勤務していました。今思えばこの時期の私は正に波乱万丈であり、苦労した記憶しか思い浮かばないのですが、良い経験をさせて貰ったと思います。大学で証券関係のゼミに所属していたのがきっかけであるのですが、やはり一度しかない人生、コネも頭も無い私が一攫千金を狙う上でこの業界に進むのは、まあ必然であったと思います。お金を印刷することは、犯罪であります。しかしながら、合法的にお金を刷る方法があるのですね。それは株券を刷って投資者に販売することであります。債券類や借入金の場合は、返済しなければなりませんが、株式の場合は一切返済しなくてもいいのですね。要は、上場企業であれば、株券という紙きれを通してですがそれはお金を刷っていることであります。ですから、一時猫も杓子も会社を上場させようとしたのですが、それはさながら現代の錬金術であり、その中には得体の知れない会社が混ざっていたのですね。
そういう世界に、貧乏学生だった私が、夢を抱いた、それが本質的な私の証券界へ身を投じた志望動機です。新入社員として都内の支店に配属になったのですが、実質的な証券会社の業務というのは、全く想像していたものとは別物でありました。当時の証券会社は大きく分けて4つの業務によって収益を挙げていました。一つ目がブローカー業務、要は株を売買することにより得る手数料であり、当時の証券会社は収益の半分以上をこの手数料で賄っていました。二つ目が投資信託や国債などの債権の販売、引き受け手数料、三つ目がアンダーライター業務、株式や債券の発行、引き受け、そして、4つ目は証券会社自身が株式や債券などを売り買いするディーリング業務であります。私達営業の一線に駆り出されますと、この中で株式の売り買いと投資信託と国債や割引金融債(今はありません)が主なというか全ての仕事となります。
新入社員の場合、株式の売買や投資信託を売ろうと思っても、基本的にお客さんがいませんので、初めの仕事はそのお客さんを創るのが仕事となります。私としては、冒頭書きました通り、ディーリング部で株式を取扱いあわよくば、数年で億単位のお金を手にして、その金を元手に相場で身を立てるという今思えば、穴があったら入りたい位の壮大な夢があったのですが、まあ、来る日も来る日も飛び込み営業で、知らない家の呼び鈴を押すか、当時はあった高額所得者リストの名簿片手に電話の毎日であります。配属先の支店長や上司が良い人たちであったのが救いでありましたが、流石に考えていたことと、現実のギャップにはただ漠然とするだけでした。それでも石の上にも三年、毎日やっていますと、お客さんが、ぽつぽつ出来てくるのと、直属の上司が、それは飛び込み営業の神様のような人でありまして、その人に認めて貰いたいとの気持ちから、どうせやるなら一番になりたいと目先の目標を切り替えて頑張った訳であります。それでも同期に入った同僚がどんどん辞めていくと、こんなことをしていていいのだろうかと超楽天的な私でも少し悩んだこともあります。私の場合順調に成績が上がっていったということと、大学の先輩である役員に気に入られたということが、とてもラッキーであったと思います。
その後支店から本店の営業部に移動しまして、さながら半沢直樹のように順調に階段を歩んだのです。本店営業部では、まあトップセールスになることが出来まして、その頃はこのまま組織の中で役員になり、そしてトップを目指すということが目標になっていましたね。それというのも相場で生きて、財をなすということがどんなに大変かこの世界にいると分かるのですな。当時は、今のように手数料が安くなかったですし、ネットも無いですから、情報や相場状況が個人投資家に殆ど入ってこなかったのです。そういう意味では今は株で個人が食べていく環境はありますね。それに相場師といわれた人たちの晩年が、相当酷いというのが、現実としてあるのです。1985年のプラザ合意、その後日本は円高になり、あの第一次バブル期に突入していくのですが、それは当時証券界の先端にいた私達は、毎日が鉄火場という環境でバブルの恩恵を大きく受けていたのです。
今となったら時効でありますが、自分で相場を張りまして、30代前半のサラリーマンとしては考えられないお金を手にして、それをまたきれいさっぱり使いまくっていたのです。今思えばあんな生活が続くはずもなく、まさに「驕る平家は久しからず、」こんな諺がありましたが、後になって本当に身に染みて実感したのですね。しかしながら、その当時は、あのバブルが崩壊するなんてことがある筈がないと本当に思っていた訳でありまして、まあ今の中国の方々には一言ご忠告したいですね。今考えてみれば、あの時もう少しお利口であれば、そのあと味わうことになるどん底の生活もなかったと後悔しています。それから暫くして、専務取締役管理本部長になっていた先の大学の先輩である親分がアメリカの大学への留学をするかと話を持ってきたことで私の人生は、またまた540度回転するのです。やっぱり相当飛ばしたのですが書ききれません。続きは来週書きますね。