週刊柏﨑 第555回_集団的自衛権

今年も半分が過ぎました。関東地方ではゲリラ豪雨などで水の被害が出ている模様でありますが、関西では今の処殆どまとまった雨が降らない空梅雨でありまして、かなりの水不足になっているみたいです。気候的にもこのままいくと冷夏になりそうでありまして、景気の回復が遅れることが我々零細業者には心配の種であります。

京都では3大祭りの一つであります祇園祭が7月1日から始まりました。まあ、祇園祭は、一か月のロングランで始まったと言っても7月中旬の山鉾巡航がメーンイベントなので京都市民にとってはまだまだ祭り気分ではありません。山鉾巡航(宵山と言われています)には、40万人超える見物客が集まり、様々な飾りつけを施された山鉾が御池通り、烏丸通りといった京都のメーンストリートを移動します。この行事はユネスコから無形文化遺産に登録されています。「後の祭り」という時期を逸して用を成さない意味の諺がありますが、この諺は祇園祭りが宵山の後の祭りが殆ど注目されず盛り上がらない様子を例えて出来た諺であります。確かについ最近まで私も、祇園祭はクライマックスの山鉾巡航で祭りが終了すると思っていました。

例年ならこの時期、前期の試験勉強で祭りどころではない娘は、5年生になり病院研修などで忙しいもののようやく試験からは解放されて、今年は高校以来、5年ぶりの祇園祭に行くそうでありまして、強制的に浴衣を買わされました。まあ、私は暑いので行きませんけどね。皆さん、お変わりなく元気でお過ごしでしようか。この頃不意に悲しくなるときがあります。まあ、私も常々言っているように還暦近くなっていて、そろそろ終末期になってきたな感じることがあるからです。先日も香港駐在員時代の直近の先輩が亡くなりまして、そういう事が現実に感じられます。私は、以前に大きな病気を経験していまして、その時直面した死の恐怖とはまた違った思いがあります。毎日深夜まで遊びまくっていた若い時、70歳位まで生きられたら上出来と思っていたのですが、実際あと10数年ですよ。あっという間です。人間の一生は正に波乱万丈、皆さん一人一人が今まで色々なことがあって今日に至っていると思います。私も本当に筆舌につくせない事を経験してきた訳でありまして、後悔は山ほどありますが、それなりに充実した生活を送ってきたと考えています。但し、それは現時点での話であって、これからの残り少なくなってきている人生、いくらでも奈落の底に堕ちる可能性があるのですから毎日を有意義に過ごさなくてはなりませんね。

今週、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定が行われました。私は、基本ゴリゴリの護憲派ではありませんし、長い年月を経過し、環境が色々変化する中、憲法が改正になるのはむしろ当然であると思います。しかしながら、それにはまず憲法に乗っ取った上での手順ということが絶対条件となります。個人的には憲法9条の平和主義である戦争の放棄については維持することが必要と思いますが、それが憲法で定められた、国会議員の三分の二の賛成とその後の国民投票による過半数の支持という憲法改正に必要な要領を経て決まった事なら国民は従わざるを得ないのですね。

今現在、この平和主義を謳う憲法の集団的自衛権の行使容認の是非にフォーカスして議論をしていますが、それよりも問題であるのは、本来なら許されない憲法の改正に必要な手順を無視し、権力者の考えで憲法を都合よく解釈して国民の意志にそぐわないことをしようとすることが一番の問題なのです。以前にも書いたことがありますが、憲法というのは、私達のような一般人を規制する法律ではありません。では何を規制しているかというと、国を動かす権力者が国民に対し間違ったことをしないように権力者を縛る法律なのですね。ですから、自分を日本の最高権力者というような方が、憲法を都合の良いように解釈するというのは、そのこと自体が、完全な憲法違反と私は思います。他人と喧嘩していて相手が殴りかかってきたら、私はキリストのような出来た人間ではありませんから、それは殴られないように防御します、でも相手がそれでも突っかかってくれば、それは相手を攻撃してしまうと思います。ここまでは現憲法で個別的自衛権として認められています。

私の友人が、知らない相手に殴られていて、自分に助けを要請しています。そこで友人と一緒にその相手と戦う、友人が正しいか確かめもせずにですよ。まあ、例えが悪いかも知れませんが、これが集団的自衛権の行使であります。今迄、この集団的自衛権の行使が認められていなかったので一番の友人であるアメリカがイラクやアフガニスタンで戦争していても戦争に参加しなくても良かったのです。そんな国民が望んでもない戦争に駆り出されるリスクを回避している憲法を、国民が望んでもないし、憲法を改正する手順を逸脱しまでして変えるその理由が私には理解出来ません。それに集団的自衛権の行使によって国民を守るという文言を度々目にするのですが、そもそも自衛隊というのは国民の安全を守っているのでは無くあくまでも日本という国を守っているのです。国民の安全を守るのは警察であるのですね。今回の集団的自衛権の行使容認は、国民ではなく、また国でもなく、外国を守る為にするのでしようね。

まあ、私のようなおっさんはもうお呼びが掛かることは無いのでしょうが、うちの息子とか若い世代は危ないですな。戦争はしないとか、言っていますが、それだったらこんなことしなくてもいいでしょ。大体、日本国憲法というのは、日本が戦争に負けた後、アメリカが主導して作成した、日本を二度と危険な国にしないように法律であります。戦争を出来ない国にしたのは、アメリカであります。それが、世界の警察を自認していたアメリカの負担が大きすぎると重荷なってきたから日本にやってもらおうと言うなら、余りにもご都合主義であります。多分、集団的自衛権の行使をしてアメリカの手伝いをしても、沖縄を始め、日本の米軍基地は無くならないし、多額の思いやり予算も無くならないでしょう。アメリカ基地の維持費を自ら負担し、土地の使用料を納めていたフィリピンはアメリカ、撤退しましたよ。日本の与党のお偉いさんではないですが、所詮は金目でしょ、と言われても可笑しくないですな。

私達は、未来に向けて後悔するようなことをしたくはありません。

今は戦争をしませんとか、遠く迄いって紛争に巻き込まれませんとか盛んに言い訳していますが、戦争をしてはいけない国から、してもいい国になったという現実は日本国民として真摯に考えなければならないところであります。八個一宇という言葉があります。この言葉は人類皆兄弟、一つの家族ですよ、という素晴らしい意味を持つ言葉ですが、実は第二次大戦時に日本の戦争のスローガンであったのですね。人類を一つの家族に日本がするために文句がある国はやっつけるという独善性の追求に走ったのです。集団的自衛権の行使は日本の平和を考えてのものだそうです。日本を平和にすることが、他国を攻撃するなんてことがあってはならないのですが、今の世界情勢を見る限りそれが度々起きているのが現実です。理想通りにはいかないものです。ですからこそ、戦争が出来る国にしながら、何を約束しても私には空しく聞こえるだけであります。

柏崎

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